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一 夢 庵 風 流 日 記

日本の習俗vol.3西国巡礼


<西国巡礼、その歴史的流れ>

西国三十三の札所巡礼は大和長谷寺の徳道上人によって始められたと伝えられている。
これは昔々の作り話(であろうが)、面白いのでご紹介。

奈良の長谷寺(西国八番)にいた徳道が急な病気で命を落とすのだが、
冥途の入り口で閻魔大王と対峙。
「悪いことをする者が増えて地獄は今、定員オーバーじゃ。
汝は特に許すから、娑婆(現世)へ戻り、人々を地獄へ来させぬように、
三十三ヶ所の観音霊場を広めよ」(←定員オーバーって閻魔さん・・・)

閻魔大王はこう言うと、徳道上人に三十三ヶ所の宝印を託す。
しかし当時の人は、なかなか信じない、そりゃそうだ。
しかたなく上人は宝塚の中山寺(西国二十四番)に宝印を埋め、使命を後世に託すこととなる。


今日西国霊場の中興の祖と仰がれるのは、宝印を取り出した花山法皇(968-1008)。
十九歳のときに出家、比叡山に上り、または書写山に性空上人を尋ね、熊野那智にもたびたび御幸。

巡礼を創めた人の説はいろいろあり、違う例を出すと
三井寺の僧覚忠(1118~1177)が観音が三十三の身に姿をかえて衆集を救ったとの
観音経の教えに従い、畿内の三十三ヶ所の観音の霊場をまわるもの・・・。

天台・真言などの高僧や修験者らの間では修行の場を求めて、諸霊場を遍歴する人たちが多かった。花山法皇もその一人。
これらの人々によって西国の札所巡礼が益々盛んになった。
現存する最も古い西国巡礼の記録は、三井寺前大僧正行尊(?-1135)の「西国巡礼手中記」
これによると現在の札所寺院名がそのまま挙げられている。

西国巡礼は室町時代に盛大になった。
石山寺には現存最古(1507年)の納札が保存されている。
この納札、古いだけではなく最も大きく豪華であるのだ、どうやらこの後
文化として浸透していくに従い、納札は簡略化の傾向へとすすむ。
江戸時代には薄い経木のようなものになり、ついには紙へと落ち着く。

現在はこの納札の風習も関西では廃れてしまったようだ。

江戸時代の西国巡礼はかなり盛大で観光のようにもなってしまったのかもしれない。
書物の中には、今でいう観光案内のようなものが出版されている。

次回から三十三所を実際に眺めていきます・・・



本日11月11日は「きりたんぽの日」だそうだ。ザッと調べたが、
どうやらきりたんぽを囲炉裏に立てている状態が1111・・・なんとも安易でイイ!

きりたんぽといえば秋田、秋田といえば「なまはげ」だ。
そういうわけで(かなり強引)、今日は「なまはげ」を取り上げる。

男鹿半島において、大晦日の夜に行われている。
村の若者らが、鬼のようななまはげ面をつけ、ワラ製のケラミノやケダシ、脛布(はばき)を着けて、
素足にワラグツを履き、手に木製の出刃包丁を持ち、やって来る。

なまはげ行事は、年越の晩に神が訪れ人々に祝福を与えるという形をとっている。
この場合のなまはげ自体は、年に一度やって来る一種の歳神なのである。

「泣ぐ子はいねがー、怠け者はいねがー」「親の言うこど聞がねガキはいながー、こごの初嫁(初婿)朝起ぎするがー、すねがー、ウォーウォー」

  ↑ クローズアップ
あんだけ怖い格好をしていながら、言っていることはまっとう(笑

さらに、一通り暴れたあと、酒と肴でもてなしを受けると行儀良くなり
いい気持ちになって、帰っていくのだ!

日本のカミは幸せと災いをもたらす二面性を保持しており、どっちの顔を見せるかはこちらのもてなし、心の持ち様で変化するのだと思う。(畏れを利用)

つまり

日本の神様:叱りはするが決して見放さない「許しの構造」(母性神)を持つ
一神教  :裁きの構造を持ち、善悪二元論であるといえる


<なまはげってどっからきたのだろう>

現在定説となっているのが「武帝説」。漢の武帝が五匹の鬼を従えて男鹿に渡り
正月15日の一日だけ鬼たちに自由を与えた。喜んだ鬼たちは初めての人間社会への外出とあって畑を荒らし、娘をさらい、村人たちを散々に苦しめる乱暴を繰り返した。
これに困った村人たちは、鬼たちにかけを申し入れた。「海辺から本山の頂上まで、一晩で、しかも一番鶏が鳴く前に、千段の石段を築くことが出来たら、娘を毎年一人ずつ差し出そう」。

一方、鬼共は日の暮れるのを待って石段造りに取りかかった。
寒風山から大岩石を抱えて門前まで一飛び。あれよあれよ見る間に石段が築かれていく。
これでは一番鶏が鳴く前に完成してしまう。慌てた村人は鶏の鳴き声の上手な人に頼んで、
千段まであと一段というところで、「コケコッコー」とやってもらった。
鬼共ははね上がって驚き、逃げていったという。
浜から続く石段。門前にはこの石段を登りつめた山腹に、五つの社が整然と並び建っている。
ここに五匹の鬼が祭られ五社堂には、今もなおこの五匹の鬼共を祭っている。
素行の荒い五匹の鬼を、いわばだまし討ちにして村を追い払ったことから、その鬼たちの祟りを恐れて、年に一度若者たちが鬼に扮して村を訪れ、それがために村人は充分にもてなし山に帰ってもらう、という行事がなまはげの始まりというお話。

(祟らないでという願いと福の神への生まれ変わりを祈願して祀ったのだろう)

もうひとつ

囲炉裏(いろり)にあたってばかりいる、怠け者の手足にできた火型を火斑(ナモミ)といい、そのナモミを剥いて懲らしめ、真面目な人間にしてやるという意味で、ナモミ剥ぎがなまって「なまはげ」になったという。

懲らしめるだけに生まれたなまはげと思うだろうが、
なまはげの装束であるケデから落ちた藁くずは無病息災の護符ともされてきた。

日本の神様の許しの構造、怖いだけではない、許すだけでもない。
そこには原始宗教と統治者の「畏れ」を利用した信仰統治も見え隠れすると思った。


*「なまはげ」は昭和53年に国の重要無形民俗文化財に指定されています。
 さらに秋田には限定「なまはげキティ」があるらしい、見たい・・・。


西国巡礼を書くに至り、観音信仰ははずせないので触れてみる。

観音信仰の基礎となる教えは、「法華経」の「観世音菩薩普門品」の中で、「観音さまは三十三通りに化身し、悩める人々を救済する」とか「観音さまの名号を唱えるだけであらゆる願いが満足させられる」と説いている。
慈悲を徳とした観音さまの教えは、わかりやすく、地蔵信仰と並んで庶民に浸透していったようだ。


我が国の観音信仰は、仏教が伝来した初期(飛鳥・白鳳時代)においては、死者の追善(ついぜん)的性格を基調とした素朴な信仰であり、奈良時代に至って『法華経・普門品』などに説く観音本来の現世利益的性格が注目されはじめ、鎮護国家や五穀豊穣等が観音の威力に期待された。

そう、当時の観音信仰は、鎮護国家から日常的な至福や除災など、現世利益が中心だった。

しかし、平安時代、浄土信仰の発達を背景に観音信仰も来世的色彩を帯び、原是利益に加えて、六観音による「六道抜苦」や、「阿弥陀脇待」(アミダキョウジ)としての「来迎引摂(ライゴウインジョウ)」の利益も説かれた。

つまり観音信仰の内容的変化、それは、一口にいって現世的信仰から来世信仰への転換で、浄土教や末法(まっぽう)思想の発展に伴い六観音(ろくかんのん)信仰や阿弥陀如来の脇侍としての信仰が盛んになっていったといえよう。

また、この頃から一般的な観音とは別に特別の由緒をもつ観音、霊験あらたかといわれるような仏像が次第に有名になり、貴族を中心にこのような霊場を巡拝する風潮が生れる。
それが平安時代末には、『法華経・普門品』に説かれる観音の三十三応現身の数にちなんだ、いわゆる西国三十三所札所にまとめられ、次いで坂東や秩父にも札所が成立して盛んに巡礼が行われるようになっていくのだった。


1、那智山 青渡岸寺 (和歌山県) 天台宗
那智山は*熊野三山の一つで、近くに那智の滝があり、まさに修行の絶好地。
明治初期に神仏分離令により青岸渡寺と那智大社に分離、今も寺と神社は隣接している。
青岸渡寺尊勝院は、中世以降は天皇、皇族の熊野詣での宿泊所にあてられていたようだ。

*紀伊半島南部、熊野にある、本宮・新宮・那智の3つの聖地をまとめていう場合の総称。
本宮とは熊野本宮大社のことで、新宮は熊野速玉大社。那智は熊野那智大社。


2、紀三井山 金剛宝寺 (和歌山県) 救世観音宗
早咲きの桜の名所(日本桜の名所百選の一)であり、境内には気象台の観測用標本木がある。
紀三井寺という寺名は、紀州にある三つの霊井のあるお寺という意味で、境内には清浄水・楊柳水・吉祥水の三井水(昭和60年、環境庁が「日本名水百選」選定)が湧き出している。


3、風猛山 粉河寺 (和歌山県) 粉河観音宗
現在の諸堂は大小20有余数えられるが、何れも江戸時代の再建である。
これは珍しくもなく、戦国時代などに戦火の影響を受けているからだ。
江戸中期の代表的な寺院建築物であり、西国に三十三所の中では最も大きい本堂を初め、
千手堂・大門・中門の4棟は重要文化財に指定されている。
本堂前の左右の崖地に築造された粉河寺庭園は、桃山時代の枯山水の庭園で上田宗箇の作庭と云われ、名勝に指定されており、現在では、まさに観光鑑賞の名地といえるのだろう。


4、槙尾山 施福寺 (大阪府) 天台宗
仏教公伝五百三十八年頃の創建で日本有数の古い寺、空海が勤操大徳について
出家得度した寺と有名。
古来より経塚がきずかれ故事にのっとって全国各札所巡礼が終れば最後に写経を納める。
施福寺は納経の寺だ。


5、紫雲山 葛井寺 (大阪府) 真言宗
本尊の千手千眼観世音菩薩坐像は、千手にて迷える衆生を救うための大慈悲を示し、
唐招提寺、三十三間堂とともに三観音として有名である。毎月十八日に開扉。
聖武天皇が春日仏師に命じて先手千眼観世音菩薩を成させ、七二五年、三月十八日入仏開眼供養のため藤原朝臣前卿を勅使に任命。


6、壷阪山 南法華寺 (奈良県) 真言宗
七〇三年、弁基上人によって開かれ眼病に効くといわれる。
「枕草子」の中で清少納言によって「寺は壷阪、笠置、法輪」と賞賛されている。


7、東光山 岡寺龍蓋寺 (奈良県) 真言宗
日本最初の厄除けの霊場、とにかくいろいろな伝説が伝わる寺である。
創建は六百六十三年と伝えられている。義淵僧正は日本の法相宗の祖といわれているが、
その出生は謎。
寺伝によると子供に恵まれない夫婦が祈願した末に、家の柴垣の上に白い布にくるまれて置かれていた赤子が義淵僧正だったという。観音菩薩の授かりものと大事に育てられ、
それを聞いた天智天皇が引き取り、岡の宮で養育されたのだ。後に義淵僧正は岡宮を譲り受けた。

龍蓋寺の名前の由来になった伝説も残っている。
大雨や強風を巻き起こし村民を苦しめていた龍をその法力をもって池に封じ込め、そこに大きな石で蓋をしたという。
その時の池が本堂前にある龍蓋池だ!


8、豊山 長谷寺 (奈良県) 真言宗
六百八十六年、道明上人は天武天皇のために銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を西の岡に安置、七百二十七年、徳道上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために東の岡に十一面観世音菩薩をまつる。
上人は観音信仰にあつく、西国三十三箇所観音霊場巡拝の開祖となった大徳であり、当山を三十三所の根本霊場と呼ぶいわれであるようだ。


9、興福寺 南円堂 (奈良県) 法相宗
八百十三年、藤原冬嗣が父 内麻呂、追善の為に建てた。
基壇築造の際には地神を鎮めるために、和同開珎や隆平永宝を撒きながら版築したことが発掘調査で明らかにされた。また鎮壇には弘法大師が係わったことが諸書に記される。奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられた。
特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになった。


10、明星山 三室戸寺 (京都府) 本山修験宗
光仁天皇の勅願により、三室戸寺の奥、岩瀬より出現された千手観世音菩薩を本尊として創建。
開創以来、天皇・貴族の崇敬を集め、堂塔伽藍が整い、霊像の霊験を求める庶民の参詣で賑わった。


11、深雪山 上醍醐寺 (京都府) 真言宗
准胝堂の創建は貞観18年であるが、現在の建物は昭和43年に再建された。本尊准胝観音は秘仏であるが毎年5月18日に御開扉法要(ごかいひほうよう)が営まれ、前後3日間だけ開帳される
醍醐といえば花見、秀吉が行った事で有名だ。


12、岩間山 正法寺 (滋賀県) 真言宗
現在の本尊は、元正天皇御念持仏で、
金銅仏千手観音立像で、"汗かき観音""雷除け観音""厄除け観音"として名高い
本尊は、毎夜日没とともに厨子を抜け出て百三十六地獄を駆け巡り、苦しむ人々を救済し、日の出頃、岩間山へ戻った時には汗びっしょり!その姿から汗かき観音さんと呼ばれている。

また、泰澄大師が当地に伽藍建立の際、たびたび落ちる雷に困り果て、自分の法力で雷を封じ込め、雷に業する訳を尋ねられたところ、雷は大師の弟子になりたいのだと申し出た。
大師は快く雷を弟子にし、その代わりに岩間寺に参詣の善男善女には、一切雷害を及ぼさないことを約束。これが雷除け観音とよばれる由故。

また《観音霊験記》によると、江戸時代の俳聖松尾芭蕉は、岩間寺に参籠してご本尊の霊験を得、
その俳風を確立したと言われており、本堂横手には芭蕉が 
"古池や蛙とびこむ水のおと" を詠んだと伝えられている "芭蕉の池" が残っている。


次回は13霊場から。



13、石光山 石山寺 (滋賀県) 真言宗
石山寺は聖武天皇の勅願により、良弁僧正によって開かれた。
境内には、日本唯一の巨大な天然記念物、世界的にも珍しい珪灰石がある。
国宝の本堂には、聖徳太子が伝えた縁結・安産・福徳の秘仏
勅封の御本尊如意輪観世音菩薩をはじめ、紫式部が「源氏物語」を執筆した『源氏の間』がある。


14、長等山 園城寺 (滋賀県) 天台寺門宗


15、新那智山 観音寺 (京都府) 真言宗
厄除開運の寺として知られ特に頭痛・病気封じ・智恵授かりの霊場。


16、音羽山 清水寺 (京都府) 北法相宗
「清水寺」の寺名は音羽の滝の清泉にちなむ。
清水の舞台から飛び降りる気持ちで・・・


17、補陀洛山 六波羅蜜寺 (京都府) 真言宗
六波羅蜜とは「布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧」のこと。
九百五十一年、醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された。

当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み
御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て
中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ
念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。
(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)

教科書に載っている空也上人像、清盛像は有名。


18、紫雲山 頂法寺/六角堂 (京都府) 天台宗
華道家元・池坊でも知られる。
昔から京都のここが真ん中といわれ、その証拠品という「へそ石」が境内に残る。
親鸞が毎夜比叡山から六角堂に百日間参籠りをし、夢のお告げによって浄土真宗を開く。


19、霊鹿山 行願寺 (京都府) 天台宗
開祖は行円上人。上人はさまざまに人を助け仏の道を説いてまわった。
密教行者のしるしである宝冠をかぶり、いつも革の衣をまとっていたので、いつしか「革聖(かわひじり)」と呼ばれ親しまれるようになったそうだ。


20、西山 善峰寺 (京都府) 天台宗


21、菩提山 穴太山 (京都府) 天台宗
本堂内の室町時代の作といわれる木彫涅槃像は、病魔平癒の佛様として名高い。


22、補蛇洛山 総持寺 (大阪府) 真言宗
亀に乗った観音様として有名。
亀の恩返しにより開かれた総持寺の話は、今昔物語や源平盛衰記等にも紹介されている。
山蔭卿の父である高房卿は大宰府に赴任の途中、猟師たちが一匹の大亀を捕らえていた。
高房卿は、自分の着物と交換し、大亀を河に放してあげた。
翌朝、河に落ちた山蔭は、昨日の大亀が元気な山蔭を背に乗せて現れた。
観音様の御恩に感謝した高房卿は観音様の造像を発願。
その後、高房卿は亡くなり山蔭卿が、父高房卿の遺志を継いで千手観音を像立し、総持寺を創建。


23、応頂山 勝王寺 (大阪府) 高野山真言宗
源氏・足利氏等各時代の覇者達が当山に勝ち運を祈り、以来人生全てに「勝つ」として勝ち運信仰の歴史をたどっている。現存する薬師堂は源頼朝、本堂・山門は豊臣秀頼の再建である。


24、紫雲山 中山寺 (兵庫県) 真言宗
聖徳太子の創建によるわが国最初の観音霊場。
中山寺の「鐘の緒」は、女性の大役である出産の無事安泰を祈る「安産の腹帯」として
本邦随一の霊跡と、古来よりその伝統をもち、深く信仰されてきた。
秀吉は当山に祈願して秀頼を授かったということもあり人気絶大。


25、御嶽山 清水寺 (兵庫県) 天台宗
海抜五百mの山上にあり、六甲の山並み、瀬戸内海、淡路島
明石海峡大橋、家島、四国等を見渡すことが出来る。


26、法華山 一乗寺 (兵庫県) 天台宗
三重塔(国宝)、聖徳太子及天台高僧像十幅(国宝)など文化財多数。


27、書寫山 圓教寺 (兵庫県) 天台宗
西の比叡山と言われる、鎮護国家の道場でその中心になるのが大講堂である。


29、青葉山 松尾寺 (京都府) 真言宗
本尊馬頭観世音は、三十三霊場中唯一の観音像であり、農耕の守り仏として
また牛馬畜産、車馬交通、更には競馬に因む信仰を広くあつめている。


30、竹生島 宝厳寺 (滋賀県) 真言宗
豊臣秀吉との関係も強く、多くの書状、多くの宝物が寄贈されている。
明治元年(1868)に発布された『神仏分離令』により大津県庁より、当山を廃寺とし
神社に改めよという命令が下るが、全国の強い要望により廃寺は免れた。


31、姨綺耶山 長命寺 (滋賀県) 
本尊千手十一面聖観世音菩薩は健康長寿、無病息災を授けてくれる。


32、繖山 観音正寺 (滋賀県) 天台宗
聖徳太子がこの地に来た際に、この山を見て「これぞ霊山なり」と感じ
太子自らが千手観音の像を刻み、堂塔を建立したのが、当寺の縁起であるという。
本堂裏堂の人魚のミイラを見てみたい。万事吉祥の縁結びのお寺。


33、谷汲山 華厳寺 (岐阜県) 天台宗
門の左右には普通サイズの草鞋の他に巨大な「草鞋(わらじ)」がぶら下がっている。
本堂の入口にあたる左右二本の柱には、青銅製の鯉が付けられている。
この鯉は「精進落としの鯉」と呼ばれているようで、かつての巡礼者達は華厳寺で満願の参拝を
済ませ、この鯉に触れることにより精進生活からすっかり開放された気持ちになったらしい。
三十三霊場ラスト、満願の寺とされているので、朱印も過去(笈摺堂)、現在(満願堂)、未来(本堂)の三つがある。



28、成相山 成相寺 (京都府) 真言宗

日本三景(松島. 天橋立. 宮島)の一つ天の橋立に近い成相山の山腹にある。
「撞かずの鐘」「身代わり観音」などの伝説で知られている。

~撞かずの鐘の物語~

昔からこの附近一帯の織屋では朝夕に鳴る報恩寺の鐘の音が
一日の仕事の始めと終わりの合図であった。 

或る織屋に仲の悪い丁稚と織女がいたが、報恩寺の夕の鐘が幾つ鳴るかについてかけをした。
丁稚は八つといい、織女は九つと言い争った。
悪賢い丁稚は寺男に頼みこんで今夕だけは八つで止めてほしい願いを約束させた。
何も知らない人のよい寺男は、簡単に引受けてしまったのである。
さて夕になり鐘が鳴りはじめた。
丁稚と織女は一つ二つと数えはじめたがどうしたことか鐘は八つで終わってしまった。
かけに負けた織女は惜しさ悲しさのあまり、鐘楼にて首をつり自殺するに及び、
その怨霊のたゝりが鐘を撞くと不吉な事が生ずるので厚く供養して菩提を弔い
朝夕に鐘を撞くのを止め、除夜と寺の大法要にのみ撞くようになったというお話。


~身代わり観音~

年老いた夫婦のお話、夫は酒を飲むと三悪道楽で、手の着けられないような男だったが
妻は心の優しい信仰心の強い人だったので、夫が外に出るたびに
観音様に「夫が真面目になってくれますように。」と一心に合掌する毎日だった。

ある日、観音様を拝んでいると、その日に限って少し早めに仕事から帰った夫が、後ろに立っていた。
妻が慌てて観音様を懐に隠したのを見て「いま、懐に隠したものは何だ? 見せろ」
「いや、何でもないよ」のやり取りが始まり、一言と二言話している内に喧嘩となった。
カッとなった夫は「それなら、こうしてやる!」と
妻の頭を側にあった薪で叩いてしまい、殺してしまった。

さすがの性悪男も、困ったことをしたと思い、夜の明け切らないうちに裏の竹藪に妻を埋めた。
竹藪から帰って来ると、不思議なことに、さっき竹藪に埋めてきたばかりの妻が家にいる!
そんなはずは?、と竹藪を掘り返してみると死んだ妻の亡骸がない。
家にいるのは、殺したはずの妻だと思ったとたん、性悪夫は腰を抜かしてしまった。

膝をガクガクさせながら、震える足でようやく家に戻り、女の人に尋ねた。

すると、女の人は、「さっき、薪で叩かれて死んだ、お前の妻です。」と答えた。
男は心臓が止まるほど仰天! 死んだはずの妻が目の前で喋っているのだから。

震えている夫に、「あんたは、私を疑って殺したけれど、我は毎日毎日、観音様にあんだが真面目になるように願掛けていたんだよ。薪で私を叩いたけれど、普段信じている観音様が身代わりになってくれたんだ。」と、そう言って懐から観音様を出した。よく見ると、観音様の頭には深い傷があったのだ。

この話を聞いた夫は改心をして、毎日観音様を拝むようになり
すると、自然と心も和み、それからは夫婦仲良く暮らしたというお話。



西国三十三カ所第十五番 今熊野観音寺

ここって、昔から「頭痛」などの頭に関する
霊験があるとして信仰深いお寺なのだが

「ぼけ封じ」の効用があるらしい

さらに

「枕カバー」まであり、大人気で、参る人はもらってくるようだ。

ぼけ封じって昔からあった?
やっぱり頭にまつわる観音様ということで派生して現代向きになったのか?
とても気になる・・・

全国、ぼけ封じの寺って結構あるよなあ。



  < 西国巡礼中興の祖、悲運の天皇、「花山法皇」について >

 今回は、番外編として、西国三十三箇所巡礼を徳道上人以来
 270年ぶりに復興させた花山法皇のエピソード。

 968年に、此の世に生を受けた師貞親王(のちの花山法皇)は
 円融天皇の後を継いで、17歳で第六十五代天皇となったが
 わずか2年で退位し出家した。
 この悲劇は藤原氏の栄華を描いた「大鏡」に記されている。

 17歳の天皇は、叔父の藤原義懐(よしつね)らを重用、政治刷新を計る。
 まあ、どこにも敵対勢力はあるもので、藤原兼家は花山天皇を退位させ
 自分の孫にあたる「懐仁(つねひと)親王」を皇位につかせ
 自身が実権を握ろうと画策していた。

 この頃、天皇がもっとも愛していた弘徽殿女御(こうきでんのにょうご)が
 8ヶ月の身重の体で病に伏し、亡くなってしまった。
 激しく取り乱し、悩み悲しむ天皇に、藤原道兼は
 「愛しい弘徽殿女御さまの供養のために、天皇の位を退いて出家なさるのがいい」
 と口説き落とす。

 986年6月23日夜、道兼は「自分もお供して出家します」と
 言葉巧みに内裏から連れ出し、山科の元慶寺に送り込んで剃髪得度させた。
 しかし、道兼は剃髪の儀式を見届けるとすぐに退散した。

 花山天皇は、ここで初めて騙されたことに気付き悔しさと悲しさで号泣。
 先に最愛の女御を失い、信頼していた側近にも騙され皇位を失った
 19歳の花山法皇は、失意のどん底に陥った。 その後、幾人かの上人を
 伴って、西国巡礼に旅立ったといわれる。

 10代で愛する人を失い、感情が揺れ動いている天皇を、サラッと騙す藤原道兼
 花山法皇は40歳で亡くなるが、芸術家肌だったのか
 素晴らしい芸術品を遺す一方で
 花山法皇の奇行を描く「大鏡」「古事談」などがある。



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